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自分の民族の過去というもの

先日、ロッテルダムのRoTheaterというところで、
"Heimwee"(ホームシックの意)というお芝居を観てきました。

これは、色々な国から集まってきた、
この国の移民たち(ロッテルダム在住の普通の移民)が、
自分たちのホームシックについて口々に語る、
という形式のお芝居です。

舞台がバーのカウンターになっており、
客席がそれと同じ平面のテーブル席になっていて、
つまりは客も出演者も同じ空間を共有できるようになっているのが、
とても親密な感じでした。

出演しているのは皆ロッテルダム在住のそこらの移民で、
私も言ってみればロッテルダム在住のそこらの移民ですから、
なにかご近所さん同士でおしゃべりしているような、
気軽な感じがすごくしました。

年齢はバラバラ、出自もバラバラ。
ソマリアから来た若い女の子とか、
インドネシアから来たおばあさん達、
アルメニアから来た若い女の子、
グルジア出身のピアニスト、
イタリア出身のおじさんギタリスト、
ドイツ人のもと船長だというおじいさん、
スリナムから来たヒッピーみたいなおじさん・・・
いやあ、大変ロッテルダム的でした。

舞台自体も面白かったです。
たとえば、
グルジア人のピアニストは眼鏡をかけた中年女性で、
とてもインテリっぽい乾いた風貌の人なのですが、
その人が言うのです。

「私は13年間故郷に戻りませんでした。
 その間、ずっとホームシックなんていうものを自分に許したことはありません、
 だって、送り返されないようにするのに必死でしたから」

つまりは難民な訳です。

そういうそれぞれの事情を抱えつつ、
時にユーモラスにカルチャーギャップを語り、
時に感情的に過去を語り、
涙あり笑いあり、
歌あり踊りあり、
アマチュアならではのセリフの順番を忘れる、といったアクシデントありの、
面白い舞台でした。
なにしろ、これを戯曲としてまとめた脚本家が舞台の上にいて、
誰かが話の順番を忘れたりすると、
「次はあなたよ」と指示しているのです。
ほのぼのしていました。

私は舞台の前半、
涙をこらえていました。
何かね、最近、人々が集まって何かしている、
というのが、心に沁みてねえ。
意味なんか半分くらいしかわからないのに、
どうにも涙が出てくるのです。

でもね、途中でインドネシア人のおばあさんが話し出した時、
私は背中に冷や水を浴びせられたような気分になりました。
まあ、話は半分くらいしか分からなかったのですが、
彼女の話の中には「JAP」という言葉が山のように出てくるのです。
第二次世界大戦中にインドネシアにいて、
その後インドネシアから逃げるようにオランダにやってきた女性です。

なんでもね、
当時ジャカルタにいた彼女は、
道で女友達と遊んでいて、
そこに駐留していた日本兵がやって来たそうですが、
彼にお辞儀をするのを忘れたそうです。
彼はいったん通り過ぎたのですが、
また引き返してきて、
彼女の頬を続けざまにビンタしたとか。
それが彼女の心に恐怖を植え付け、
その後日本人が怖くてたまらなくなった、という話でした。
まあ、もっとディティールがあるのですけど、
私のオランダ語では大まかにしかわかりませんでした(笑)

ジャップ、という日本人の蔑称を、
オランダ語ではヤップ、と発音します。
この話をする間、
このインドネシア人のおばあさんは、
あのヤップがやってきて、
ヤップに占領されて、
ヤップに何かを取り上げられて、
ヤップの収容所に入れられて、
と、絶え間なくこの「ヤップ」という言葉を使うのです。
ヤップの洪水みたいでしたね。
その場にいるヤップはもちろん私だけですし、
名指しで言われているみたいでおぼれかけましたよ、まじで。

よく言いますよね、
インドネシアはオランダの植民地で、
日本はインドネシアをオランダから解放したんだから、
インドネシアには親日が多いって。
私だって日本にいた頃そんな話を聞いていて、
そんなもんかなと思っていたのです。
でもね、あれ、どうやら日本人の希望的推測にすぎませんよ。
現にこうやって、
戦後七十年経ってもあの頃の憎しみを忘れられないインドネシア人がいる訳ですから。

やっぱりね、いい気なものだ、と私なんかは思う訳です。

第二次世界大戦中のインドネシアにおける日本人の振舞い話を聞いて、
私が言葉を失うのは初めてじゃないのです。
むしろ、彼氏の実家に行く度に言葉を失っておりますよ。

私の彼氏の父親(ディック)は、
御年83歳になりますが、
インドネシアで16歳まで育っているのです。
戦争が起こった時、インドネシアにいて、
父親と当時18歳だったお姉さんが強制収容所に入れられています。

ディックの父親は、
戦争中ずっとインドネシアに日本人がつくった強制収容所に入れられて、
戦後出てきた時には体重が40キロしかなかったそうです。
もう抜け殻みたいになっていて、出て来てすぐ亡くなったって。

別々の強制収容所に入れられていたお姉さんとも、
私は事あるごとに顔を合わせますが、
やっぱり昔の思い出話でよくこの大戦中の話が出てきます。
なにしろ青春ど真ん中が強制収容所ですし、
その後何の関わりも日本と持っていないので、
日本人と話すとなれば強制収容所の話しか接点のある話題がないのです。
その度に私は、ハラハラ、ドキドキ。
白馬事件的な話が出て来てしまったらどうしようかと、
居ても立ってもいられないのです。
向こうに悪意や当てこすりみたいな意味はない事はわかっていますけど、
どうにもこうにもね。

でも何となく私がそれを乗り越えられるのは、
私の祖父母のおかげです。
なにしろ戦時中は、
共産党で、
反戦運動をして、
牢屋に入れられて、
公安から拷問受けてますから。

だから私は、
結局みんなからは「日本人」という括りで一緒くたにされようとも、
心の中では「私は関係ない。」と思っていられるわけです。

私はオランダに来てから、
本当に、本当に、
自分の祖父母を誇りに思うようになりました。
というか、
「ありがとう」と拝むような気持ちです。

私の祖父母は結局力が及ばず、
日本の戦争には何の抑止力にもならず、
ずっと非国民扱い・裏切り者扱いで戦後を迎えた訳で、
その後の日本でもレッドパージにあって職に就けなかったり、
まあ散々な生涯を終えている訳ですが、
彼らがそうやって、
物凄い思いをしながらも信念を通してくれたおかげで、
私は堂々としていられるのです。
ここには何の含みもありませんよ。
祖父母が反戦平和のために戦ってくれたことは、
私の大きな誇りですし、
心理的に私を守ってくれています。

日本は今、
憲法を改正しようという動きが大きくなって、
中国とか韓国を敵視して、
何かと愛国心だとか絆だとかって一致団結しようとしていますが、
私たち一般市民にとって、
本当にそれは必要なことなのだろうか。
ちょっと、ちょっと、待ってよ、と言いたいのです。

私たちの行動の結果は、
何もかもが終わった後も、
必ず相手のなかに残るのです。

今は中国人も韓国人も日本人も手は出さずに、
単に悪口を言いあっているだけだから良いけれども、
これが本当に何かの実行を伴った場合、
その禍根というのは放射能と同じくらい長く消えないぞ、と言うことです。

戦争が終わって、
十年経って、二十年経って、
女の子が娘になって、女の人になって、
子供を生んで、働いて、
中年になって、老年になって、
その間ずっと心の中で私たち日本人を恐れ、
憎み続けて許さない女性がいるのだという事を、
忘れてはいけないなあ、とつくづく思った事でした。










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