先日、仕事をしていたら知人の女性に会いました。
同じジャンルの仕事をしている人で、
それほど親しくはないけれども、
その人の醸し出す雰囲気が私はとても好きで、
仲良くしてほしいな、と思っている人なのです。
で、その人が言うのです。
「あら、やせた?」と。
私は最近食が細いのです。
食べるタイミングを外したりすると、
食欲がなくなってしまって、もう食べられなかったりします。
まあ育ち盛りでもあるまいし、
うるさい母親は日本にいるし、
私が規則正しく他の生命体を喰らわなかったところで誰も損をしないので、
あまり気にしてないのですけどね。
ただ、痩せたことは確か。
「ええ、そうですね。もう年だからでしょうかねえ」
と私は言いました。
するとね、その人が言うのです。
「あー、そうだねえ。私も肉が落ちちゃってガリガリ。
いやだねえ」
確かにその人は余分な肉なんかこれっぽっちも無いような、
そんな身体つきをしているのです。
でも私はその人のそのスリムな体形を良いなと思っていて、
年を取ったら肥満体型よりは飢餓体型が望ましいと常日頃から思っているものですから、
「そうですか?太っているよりはいいですよ」
そう彼女に言いました。
するとね、彼女が顔をしかめながら言うのです。
「いやいや。年を取ってあんまり痩せないほうが良いよ。シワになるから。
シワだらけはみっともないよ。太っていれば、こんなシワシワにはならないからね」
老化の問題は、私たち女にとっては温暖化よりも切実な問題です。
私も常日頃鏡を見てはため息をつく毎日なのです。
四十を過ぎてから、まるで坂道を転がり落ちるみたい。
自分にとって切実だったものだから、
私はこう言いました。
「いやあ。太っていようが、痩せていようが、年を取ったらもうダメですよ。
私なんか毎日鏡みてため息ついてますよ。
年を取ったらみんな不細工。もう仕方ないですね」
この年を取ったらみんな不細工、ていうセリフは、
バナナマンの日村氏がどこかで言っていたのです。
自分は今は突出して不細工だからこれで商売が出来ているけど、
年を取ったらみんな不細工になってしまうから、
商売道具としては切れ味が鈍くなる。不安だ。とね。
私はこの考え方が割と好きで、
こんな風な考え方をしたいなと思って、
頭の中にひょいと置いておいたものが、この時にふと出てきたんでしょうね。
「いやあ、年を取ったら、どうであろうとみんな不細工ですよ。
太ったって、痩せてたって。私ももうダメだなって思います」。
すると、その人が苦笑いをしながら言うのです。
「あなたが言うと嫌味かもね。あんまり言わない方がいいかもよ」
ハッとしましたね。
確かにね。
彼女は私よりも二十も年上で、
必然的に私よりもシミ・シワが多く、
美貌的には私マイナス二十くらいですよ。
ああ、やってしまったな、と思いました。
この人のこと、本当に好きなのに。
私の今の発言は、老女である彼女を指さして、
「お前は不細工である。もうダメだ」と言ったに等しいことでした。
また無神経な舌禍事件を起こしてしまった。
慌てて取り繕ったけれども、もう取り繕いようがありませんでしたよ。
こういう時、私は決まって、
自分はどこかがおかしいのではないか、と思います。
何かの考えのループにとらわれていると、
相手の立場や事情がまったく見えなくなって、
自分の発言がどういう風に受け取られるか全然わからなくなります。
そもそも人の心がわからない傾向があるのですが、
非常に無神経で冷酷な発言をしてしまうことがあるのですよね。
ソシオパスとか、ADHDとか、そういう感じなのかな?と思ったりします。
ただ、思うそばから、
それは逃げなんだろうなと思ったりする訳です。
私の年若い友人が、
最近私の前で泣きましてね。
自分は仕事上であり得ないミスを沢山するのだ、と言うのです。
他の人だったらしないようなミスを連発してしまって、
ものすごく怒られる。
で、反省して気をつけているのに、やはり繰り返してまた怒られる。
仕事を辞めようかと思っているのだ、と言うのです。
そして言うのですね。
「私はADHDではないかと思う。
ネットで条件を当てはめてみると、全部に思い当たる」と。
私は思いましたよ。
「私は違うと思う。
私の中ではあなたのすべてがADHDには当てはまっていない」とね。
思うだけじゃなくて、そう言いました。
ただ、うつ病の人に「頑張れよ」が禁句であるように、
メンタルヘルスの世界には言ってはいけない言葉が沢山あるみたいだから、
言ってよかったのかなと後からちょっと思いましたが。
だけどねえ、
彼女は頭も良いし、性格も良いし、
友だちも多ければ仕事もあって自立しているし、
シングルマザーだけど彼女の赤ちゃんは幸福そうだし、
日常に支障をきたすほど病的には見えない。
むしろ普通の人の三倍増しで健康な精神を持ってそうですよ。
まあ少なくとも、自分の人生をどんどん破滅的な方向に向かわせる私よりは、
よっぽどマシなコントローラーを持って生まれて来ている感じがするのです。
ADHDなんていう仮説をどこから引っ張り出してきたんだか、
そういえば彼女は自分の元彼も「アスペルガーじゃないかと思う」と言っていましたが、
私から見れば彼もまた、行動線がインテリよりは動物に近いというだけの普通の男でしたから、
まあ、そう、現代では誰もが普通の人の劣ったところに病気のレッテルを貼りたがる、
そしてそれは自分自身にさえも適用される傾向なのだ、ということかもしれませんが。
でも私はね、そうやって劣った部分に病気のレッテル貼りをするようなことは、
すべきではないと思っている派なのです。
病気だとわかれば楽になるのだ、と言った友人がいましたが、
そんな浅い所で楽をしちゃダメなんだと思いますしね。
彼女は辛いのだな、と思います。
私もやはりつらいです。
何がつらいって、
自分が普通のレベルの阿呆で、
人間的におかしいところ、無神経なところ、非常識なところが一杯あって、
しかもそれがデフォルトで、
変えようとしても全然変えられないのだ、という所ですね。
小さい頃からそうで、大人になってからもそうで、
一生同じことを繰り返しているのに、
一向に学ばず、
同じところでまた転ぶ。
そしてそれはただ単に普通は転ばない所で階段を踏み外し続けているだけのことだから、
積み重なっても身になることは永遠になくて、
ただ単にそれが原因で成り上がっていけないだけ。
他の凡百の人間たちと同じように。
私なんて運はかなり良かった方ですから、
他の人よりも頭一個飛び抜けててもおかしくなかったはずですが、
この非生産的な資質のせいで、
飛び抜けるどころか空気人間化している訳です。
私のことを大変優れていると思っている母親の胸のうちを想うと、
心が痛む日もありますよ。
こんなはずじゃなかったとね。
でもそれは病気だから、
ADHDだから、アスペだから、ソシオパスだから、高機能自閉症だからなのだろうか?
そういう人もいると思いますけど、
私は自分自身はそうではないと思います。
単に、欠点があるだけですよ。
そして、彼女も違うと思う。
私も彼女も、普通に気が利かない阿呆なだけです。
でも高学歴でプライドが高くて、むしろ人よりも聡いから、
自分が(いろいろな理由で)仕事が出来ないことを、
病気に持っていって安心したいだけだと思うのです。
安心できるならそれで良いのかな?
そうとも言えるけれど、でも、それは基本的に、
深く自分という人間を掘り下げることを、妨げると思うのですよね・・・。
たとえ精神科にかかって「ADHDですよ」と診断されたところで、
その診断書が暴言を無効にしてくれる訳ではないし、
仕事が出来ない理由として同僚がひれ伏してくれる訳もないし、
まあ自分自身に対して、
「でも私は病気だから仕方ないよね」と納得させることは出来るかもしれないけど、
本当にそれは解決と言えるのだろうか。
結局、自分の人生というのは、自分の能力と度量がすべてで、
この自分を死ぬまで自分で抱えていくしかないのだと思います。
私は夢見がちな人間だから、
自分が臆病で目端の利かない凡人だったり、
心の冷たい都会人であったり、
ろくに言葉もしゃべれない最底辺の外国人であったりすることを、
なかなか認められないのです。
もっと美しくて、能力があって、人に好かれるような、
早く走れる人間でありたいのです。
でも、自分がそういう人間になれなかったからといって、
「だって自分は病気だから」というのは、違うなと思うのです。
いや、厳しい環境におかれると人は病的になりますから、
そういう意味では病気なのかもしれないけど。
でも、やっぱり私は私のままで、
「自分」というものから逃げるべきではないと思う。
この「自分」、この私のままで、
自分の居場所を見つけて、自分の生き方を見つけて、
そして、人から愛される方法を見つけるべきなんだと思います。
私の年若い友人には、
確かに彼女自身の言う通り、
仕事の出来ない所はあるのだろうと思います。
でも、その代わりに、他の人が持っていない非常に優れた部分だってある。
自分の劣ったところを「病気ですから」とごまかした瞬間に、
その優れた部分は輝きを幾分失うのではないかと、
思ったりするのですが・・・。
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